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SSの幼生


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待ちこがれ
 砂利がこすれる音と共に、一台の自転車が走ってくる。ここは、朝の堤防沿いの道・・・。
(あ、あの人がいる・・・。)
 蔀は”あの人”を横目で見ながら、学校へ向かっていった。
(あの人、いつもいるけれど何をしているんだろう?)
 高校に入学し、通学路が変わった。それ以来、毎日この道を通るのだが、”あの人”はいつもそこにいるのだ。
(仕事がないのかな?)
 彼女はふっとそんなことも考える。しかし、朝早くからあんな場所に立って一日過ごしているとは考えられない。
 色々と考えたのだが、結局良い考えが思い浮かばない。
「あのー・・・。」
 帰り道、蔀は思い切って”あの人”に声をかけてみた。”あの人”はいつもどおり堤防に座って、水平線を眺めている。
「なんでしょうか?」
 彼女と顔を合わせたその人物は、横顔から想像していたものよりもずっとりりしかった。きりっとした顔立ちに蔀はどきりとした。
「あの、私いつもここを通るのですが、いつもここにいますよね? いったい、何を待っているのですか?」
 蔀の質問に、”あの人”の顔が曇り、下を向いた。その物憂げな表情がまた蔀の心をかき回した。
「分からないんです・・・。」
 見たところ大学生もしくは、社会人の始めといった年の”あの人”は低く美しい声でつぶやいた。
「分からないって・・・。」
「すみません。笑われるかもしれないんですが、どうしても分からないんです。でも、どうしてかここで待っていなければならない気がして・・・。」
 蔀は自転車から降りて、”あの人”の側へ近寄った。
「ははは・・・。おかしいでしょ? この年でこんなバカみたいなことを・・・。」
 ”あの人”の寂しげな笑顔は夕日に照らされ、より寂しさを増していた。しかし、そんな悲しげな仕草の一つ一つが蔀の心を深くえぐった。
「どうでしょうね? ほら、前世とか守護霊とかそう言うものかもしれませんよ。」
「どうなんでしょうね・・・。私には霊感が全くありませんし。」
 蔀は堤防に座って、じっと”あの人”を見つめた。
「私、蔀っていいます。名前なんていうのですか?」
「ああ、私ですか? 私は稲川っていいます。」
「稲川さんですか・・・。仕事しているんですか?」
「ええ、まぁ。フリーターですけど、一応仕事に入りますよね? でも、どうしてそんなことを?」
「あ、すみません。私、ずっとここにいるところしか見たことなかったんで。」
 稲川はゆっくりと水平線に吸い込まれていく太陽を見ながら口を開いた。
「仕事の時間以外は、こんなふうにずっと堤防で待っているんですよ。いったいいつ、何が来るのかは分からないのですが、ここで・・・。もう大学を卒業しているし、仕事に就かなければならない年ではあるんですがね・・・。とはいっても、大学でも授業がないときいつもここで待っていたので、もう習慣の一つになってしまって、いきなりやめることもできませんよ。」
「へぇ・・・。そうなんですか。なんだか夢がありますね。」
 蔀は稲川に向かってほほえんだ。すると稲川もにこりと笑った。
「おっと、日が暮れますね。そろそろ帰りますか・・・。」
「夜に稲川さんの待っているものが来るかもしれませんよ。」
 もう少し彼と一緒にいようとして蔀は声をかけた。しかし、稲川は彼女の意見を全く聞き入れなかった。
「分かるんですよ。陽の当たっている時間にそれが来るっていうことが・・・。さぁ、蔀さんも帰らないとご両親が心配しますよ。ましてや、私みたいなよく分からない男と一緒にいたんじゃ・・・。」
 稲川の心配そうな表情を見て、蔀は思わず立ち上がり自転車に手をかけた。
「それじゃ、私帰ります。さようなら。」
「ああ、さようなら。気を付けてね。」
 百メートルほど進んだ後、蔀はこっそりと後ろを振り向いた。そこにはもう稲川の姿はなく、町の街灯と闇があるだけであった。

 初めて稲川と会話をしてから、約一ヶ月が経った。その日も、蔀はいつもどおり帰ろうと鞄に教科書などを詰め込んでいた。
「ねえ、蔀。今日もあの人と一緒にいるの?」
「ん? あの人?」
 仲の良い友達の董子が蔀に近寄ってきた。
「とぼけちゃって。堤防沿いで大学生くらいの人と一緒にいるじゃないの。みな実が一緒にいるとこ見たって言っていたのよ。」
「・・・、ああ稲川さんね。」
「へぇ、稲川って言うんだその人。どこで知り合ったの?」
「えっ?」
 何かを期待しているような目で董子が見つめてくるので、蔀は思わずたじろいだ。いつも堤防沿いで稲川と一緒にいるのは確かなのだが、特に会話もせずに彼が待っているのにつきあっているだけなのだ。
「知り合ったのはいつも一緒にいる堤防沿いだけど・・・つき合っている訳じゃ・・・。」
「へぇ? いつも一緒にいるのにつき合っていないって、まあいいわ。私もああいう年上の人を探すから。」
 ”今後の発展に期待していますよ”と董子の目がいっているのが、蔀には怖いくらい分かった。しかし、稲川は自分を恋愛対象として見ていないことを薄々感じていた蔀は今後の発展など全く期待していなかった。
(友達に言われて急に相手を意識し始めるなんて、どこかのドラマみたい・・・。)
 こんなことを考えながら、蔀は自転車に乗り堤防まで走った。するとそこには見慣れた稲川が座っていた。
「やあ、蔀さん。今日はバイトが早く終わったから先に座っていたよ。」
「そうですか・・・。」
 何を待っているのか分からないという不安からか、いつもどこか影のある笑顔を向ける稲川の顔を、蔀は正視できなかった。彼女のわずかな動きの変化を稲川は感じ取ったようだが、特に何も言わずに海の方へ目をやった。
「そろそろ夏休みだよね。やっぱりこの時期になると新人の子が必ずといっていいほど来るんだ。それで、今日高校1年の女の子が来てさ、その子と私を見比べて店長が言うんだよ。”お前もいい加減に定職について、若い奴らに仕事口を譲ったらどうだ”って。」
「へぇ・・・。稲川さんってずっと同じバイトをやっているんですか?」
「そうだよ。この近くの大学に入るために、付属の高校で寮生活し始めたんだよね。まぁ、実家から通えない距離じゃないけれど、勉強に集中できるようにって理由で家を飛び出したんだ。そのときからだから、今年で八年目・・・かな? あれ、九年か?」
 指を折りながら首をひねる稲川の姿をちらりと見てから蔀はつぶやいた。
「大学を出てからずっとバイトをしている稲川さんのことを店長も心配してくれているんですよ。」
「そうかもなぁ・・・。でも、会社に入っちゃうとここで待っていられるのは朝だけだからなぁ。ところで、蔀さん今日は元気ないようだけれど、どうしたの?」
 彼女の方をいっさい見ずに稲川は言った。蔀はとっさに稲川の方を見たが、彼は遠い目をしながら海を眺めている。
「それは・・・。」
 蔀は下を向き、足下の草を引きちぎった。突然、沈黙が訪れ草をちぎる音と波の音しか聞こえなくなった。
「あ、いたいた・・・。」
 自転車が走ってくる音が聞こえた後、みな実の声が遠ざかっていった。恐らく、明日も董子に自分たちのことを報告するのだろう。
「あの、稲川さんは私のことをどう思っているのですか?」
 草をちぎるのをやめ、蔀は稲川の顔をじっと見つめた。
「どう思っていると言われてもなぁ。まあ、強いて言うならば”可愛い妹”くらいかな。」
「そうですか。それを聞いて安心しました。」
 稲川はそれ以上聞かずに、にこりと笑ってから海を見つめた。夏の昼は長いから、あと一時間ほどは日は沈まないだろう。

 季節が巡り、春が近づいてきた。梅雨には傘をさし立ち続け、夏にはウチワや扇子を仰ぎながら、冬はコートをまとい体を震わせながら二人は待ち続けたのだが、稲川が待つものは結局来なかった。稲川のアルバイトは定期的に変わったが、高校以来やっていたものは未だに続けていた。一方、蔀はこの春に高校を卒業し別の県の短大への進学が決まっている。
 二人の関係は全く発展しなかったが、二人が時間を過ごす堤防の周りは刻々と変化していた。この近くにビルがいくつも建ち並んだために、道が整備されたのだ。今では並木が植えられ、街灯も立ち人通りが以前よりも激しくなった。
「だんだん暖かくなってきたね。」
「そうですね。そろそろ稲川さんバイトの時間じゃないですか?」
「ああ、そうだね。でも、蔀さんはいいの? 私とこんなふうに堤防にいて。一人暮らしする準備をした方がいいんじゃない?」
 稲川の言葉に、蔀はうつむいた。
「大丈夫です。荷物は箱に詰めましたし、むこうの部屋も見てきました。」
「そっか。でも悪いね、ゴタゴタしている時期に私の相手なんてさせちゃって。」
「いいんです、私も稲川さんと一緒にいることが習慣になって来ちゃいましたから。」
 そういって彼女は笑った。稲川はそれを見て愁いを含んだ笑顔を返すだけだった。
(やっぱり言えない・・・。)
 この一年半の間、三日に一度くらいの割合で董子や他の友達が稲川との関係を聞いてくる。しかし、関係は夏以来一向に発展せず、皆がっかりとした顔をするだけであった。
「ねぇ、思い切ってさぁ・・・。」
 この言葉を聞くたびに、決意を固める。しかし、稲川の愁いを含んだ笑顔を見るたびに絶対に壊れない自信があった決意が微塵のように粉々に壊れてしまうのだ。彼の笑顔は底知れぬ深みを持っており、全ては見えないのだが自分を恋愛対象として見ていないことだけは分かるのだ。そして、海を待つ彼の目はまだ会えぬ何かに対する憧れが浮かび上がってくる。自分を見つめる瞳と、海を見る瞳を見比べたとき、自分なんてただの年下の女の子としか見ていないのは明らかなのだ。
「そう言ってもらえると少し安心するよ。ところで、いつむこうへ行くの?」
「実は・・・これからなんです。」
「えっ?」
 その時、蔀はウソを言った。彼女の乗る電車の時刻ならば、バイトが終わった稲川に会うことはできるのだ。しかし、突然の別れを伝えれば、稲川の心境が変化するという淡い期待を抱いたからだ。
「そっか・・・。残念だな。これで別れると知っていれば、それなりの言葉もかけられたのに。」
「・・・。」
「じゃぁ、もうお別れだね。新生活は何かと大変だろうけれど、体に気を付けてね。短大を卒業した後、もし地元へ帰ってくるのならばまた会えるといいな。」
「ええ・・・。」
「それじゃあ、本当にお別れだね。体に気を付けて。」
 稲川は残念そうな顔をして去っていった。蔀はずっと立っていたが、彼の姿が見えなくなると堤防に座りうつむいた。顔を手で覆ったが、泣きたくとも泣けなかった。稲川の顔は、確かに残念そうな顔をしていたが、蔀と長期間会えなくなるのを悲しんでいるようには見えなかった。
 彼女はしばらくそこにいたが、やがて立ち上がり家に帰っていった。そして、電車の時間まで部屋に閉じこもり、時間になると駅へまっすぐ向かった。

 季節が一回りして、また冬の終わりが近づいてきた。稲川はいつもどおり海を眺めながら堤防に座っていた。この一年間、彼は一人で待ち続けている。夏休みに蔀が戻ってきたのかもしれないが、彼に会いに来ることはなかった。
「・・・。」
 誰かの視線を感じて、稲川は振り向いた。鞄を抱えた社会人が自宅へ向かい歩いている。それに混じり部活が終わり家に向かう学生もいる。そしてその奥の車道は自宅に向かう車が勢いよく駆け抜け、赤や黄色の光の筋を描いている。
 全ての状況において、人々は何かしらの指示に従い行動していた。その指示が誰のために有益なのか、そして誰が与えた指示なのかはここに違ってくるが、ひたすら指示どおりに動いていた。しかも指示どおりに行動している間は、できるだけ自分自信が有益になるように、そして害が及ばないように考えを巡らしているのだ。誰一人、自分以外のことを心配しようとしない。ましてや、堤防に座り海を眺めている稲川を不思議に思うことはない。
 また、人々はそれぞれ個別な行動を取っていることは事実なのだが、実際には全員が何か見えない力で同じ方向に動かされているようにも見える。その力とは、この国の社会活動の維持と発展という見えない巨大な流れなのかもしれない。しかし、実際は人々が個別の行動を取っていることで、巨大な流れが生まれたのかもしれない。流れを生み出すために指示が生まれたのか、個別の指示に対する行動により流れが生まれたのかは分からない。だが、間違いなく人々は何か大きな流れの中で動いているのだ。
 稲川は辺りを見渡したが、見えるのは人の波だけで自分を見つめる視線の主はいなかった。彼は必死で探したが、視線の力は徐々に弱まり、やがて消えた。
「・・・。」
 視線が消え、稲川はその場に立ちすくんだ。視線がなくなった瞬間、今まで彼の心を支配していた”待たなければならない”という感情が消えてしまったのだ。そして、まだ見ぬ待つべきものへの期待感も消えてしまった。
「そんな・・・。」
 稲川は堤防に立ちつぶやいた。実際は、つぶやくという言葉に不似合いなくらい大きな声だったのかもしれないが、彼の声に反応する人間はいなかった。
 期待も使命感も失った稲川は、それでも周囲を見つめ続けた。彼の周りは淡々と目的とするモノへ向かう人しか見えない。そして、人々の表情を必死で見れば見るほど、彼らの表情は能面のように見えてくる。それは、自分たちのことだけを考えられるように、他人に干渉しないように周囲を見えないようにするために、そして他人から干渉されないようにするために作られた仮面なのだ。目の前の人間があまりに人間らしくないということを、稲川は必死で否定しようとした。しかし、周りを見れば見るほどその確信は強まり、彼がどんな言葉を用いてもその考えをうち消すことができなかった。
 自分の感情と確信を覆すことができないと分かったとき、稲川は再び堤防に座り込んだ。
(私は、人の波の中に一人だけ取り残されてしまったのだ・・・。)
 彼が感じたこの感情は、頭の中で言葉となりやがて確信へと変わった。しかし、”取り残された”という言葉とは裏腹に、寂しさはいっさい感じなかった。以前のように憧れや期待をいっさい与えてくれない水平線をしばらく見つめていた稲川はすくと立ち上がり、道に流れる人の波を見つめた。そして、意を決したようにその波の中へ飛び込み、家へと向かった。

「店長、内定が決まったんで今週でバイトをやめたいのですが。」
「おお、稲川やっと決まったか。お前がここで長いことバイトやっていたから少し寂しくなるな。」
 ソファに座り新聞を読んでいた店長に稲川は頭を下げた。
「いままでありがとうございました。」
「よせよ。これだけ長いこと努めていると俺も息子のように思えてくるからな。とにかく仕事が決まって安心したよ。まぁ、がんばってくれ。バイトと違って、社会人になると大変だからな。」
 頭を上げた稲川は、半分ほど新聞に隠れた店長の顔をちらと見て、すぐに目をそらした。もはや長い間つき合ってきて、自分のことを心配してくれていると感じていた店長の顔も、能面に見えてしまうのだ。誰の指示に従い店長が働いているのかは分からないが、彼は間違いなく能面を付けていたのだ。
 次の週から、稲川はスーツを着てネクタイを締めて家を出た。そして、人の波に紛れながら会社へ向かい、そこで多くの人と接し、彼らと仕事をこなしていった。
 会社の中で、稲川の存在はとりわけ異色であった。稲川は出会った瞬間から他人の心を読み、彼らを自分の意のままに操った。稲川が指示指示をすれば、相手は言葉の通り行動するし、助言を与えれば、それは相手の心の奥深く食い込み確実の助言の内容を実行する。稲川に依頼した仕事は間違いなく成功し、その後のいざこざは全く起きなかった。相手側から不満は出ないし、社内でも良い評価しか聞かない。稲川に対する信望は鰻登りに上昇し、彼は信じられない速さで重役に就いた。若すぎるが故に社長へなることはなかったが、彼らは自分の父親ほどの人物を自在に操り会社を動かした。そして、会社へ莫大な利益をもたらし続けた。
 そんなある日、稲川は取引先で開かれる会議が終わり、町を歩いていた。多少時間があったので、学生時代から長い時間を過ごした堤防へ行ってみた。
「懐かしいな・・・。」
 そんなことをつぶやいたとき、後ろから声がした。
「あら、稲川さん。お久しぶりです。」
 後ろを振り向くと、何年ぶりかに見る蔀がいた。稲川は立ち上がりまっすぐ前を見ようとしたがそれはできなかった。彼女は当時と比べればはるかに女性の美しさに磨きがかかり魅力的であったが、その顔だけは能面であったからだ。
「ひさしぶりだね。元気にしていたかい?」
「ええ、短大を卒業してから地元に就職先が決まって。もう社会人二年目です。」
 そう言って彼女はにこりと笑った。化粧をした蔀の笑顔は確かに美しかったが、能面ではない高校時代の彼女の笑みの方がはるかに魅力的だと稲川は思った。
「そうか。蔀さんが短大へ行った次の年に私は就職してね、もう社会人四年目だよ。」
「それじゃあ、待っていたものは見つかったんですか?」
 蔀の瞳が一瞬きらりと輝いた。その一瞬だけ、彼女の顔に被さった能面が外れた。
「ははははは、どうだろうね。結局、分からないままだよ。」
 あの頃、彼女が感じていただろう物憂げな笑みを再現しようと稲川は努めた。しかし、当時の期待はもう失われ、あのときのような笑顔は作れなかった。
「そうですか。残念です。」
 再び能面が被さった蔀は眉をひそめた。”社会の波にもまれ、稲川さんも変わったんだ”と彼女が感じているのが稲川には痛いほど分かった。しかし、それを否定しようとは思わなかった。彼の今の気持ちを伝えることがどれほど無意味なことが稲川には分かっているのだ。
「あら、ごめんなさい。もう行かなきゃ。それじゃあ、またどこかでお会いしましょう。」
「そうか、引き留めて悪かったね。じゃあ、私も会社へ戻ろうかな。」
 もうあのときのようにゆっくりと話はできないと感じつつ、二人は別々の方向へ歩き始めた。
(私が待っていたものはいったい何だったのだろう?)
 勤務中に仕事が一段落すると、彼はよくこのことを考えた。他の人と比べ、仕事をこなす効率がずばぬけて良いために稲川には自由な時間がたくさんあった。そのために、このことを何度も反芻し様々な角度から検討することができた。
 答えを探しながら稲川は淡々と仕事を続け、数年後には社長となった。そして、会社の規模を拡大しさらなる利益を生み出した。彼は決してそうしたいとは思わなかったが、そうなることが分かっており、その流れに逆らわなかっただけである。
 出張などで別の土地へ移動すると、流れの中でぽつんと立っている自分と同類の人間を何人か見た。そういう人に出会うと、稲川は軽く会釈をする。彼が会釈をすると、相手も全てを理解して会釈を返してくる。伝えたいことはこれだけで十分なのだ。
 それから何十年経ったであろう。押しも押されぬ大社長となった稲川は、定年を迎えると会長などの名誉職に就くことをがんとして断り、隠居の身となった。知名度の高さや、人の動かし方のうまさは世間に知られ、その腕は年を取っても一向に衰えていなかったのに、会社とは完全に縁を切ったことを周りの人は不思議がったが、稲川はそのような人々に何も答えずに会社を去っていった。それから人里離れた場所に家を建て、住み込みの女中を雇いのんびりと過ごした。結婚をせず、女性と交際することもなかった彼は、孤独ではあったが寂しさを感じているようには思えなかった。
(彼女は何をしているのだろうか?)
 稲川は家の窓から海を見ながら考えた。彼女とは、職に就く前から現在までの間、彼が唯一親しくつき合っていた蔀のことである。いつの時か、堤防沿いで社会人となった彼女にばったり合って以来、年賀状や暑中見舞い、さらには会社の会議や集まりなどで何度か顔を合わし、音信不通ということはないのだが、若いときほどの親密さはなかった。
(あのとき、私は求婚するべきであったろうか?)
 三十路前後には、彼は真剣にこのことを考えた。現在はもちろんのこと、当時の自分であっても明らかに幸せな生活を彼女と過ごすことができるということは稲川に分かっていた。しかし、求婚する勇気がないという理由ではなく、全く別の”何か”が彼のその行動を押しとどめ、結局現在に至った。定年をすぎた今となっても、この理由は分からない。そしてなぜか、このことを考えるたびに、堤防沿いで出会った彼女の能面のような顔が目に浮かぶのだ。
「稲川さん、ちょっと掃除をしたいので、外を歩いてきてくれませんか? 普段よりも少し早い時間ですけれど、外は良い天気ですよ。」
 物思いにふけっていると、女中が声をかけてきた。稲川は軽く返事をしてにこやかに笑った。それから、ゆっくりと部屋を出て玄関へ向かった。

(おや、またあの青年が立っておる・・・)
 普段散歩に使う道をのんびりと歩きながら、稲川の目はある一点に止まった。
(おそらくは、昔の私のような・・・)
 稲川が見つめているのは、一人の青年である。彼は、昔の稲川のように海の向こうを見つめ座り込んでいる。
「こんにちは。」
 田舎なので、数年前まで大社長として名をはせてきた稲川を知るものは少ない。ましてや、このように若い青年など知るよしもない。稲川に声をかけられた青年は、くるりと声の主の方を向き会釈をした。
「こんにちは・・・。」
「毎日、そこに立っておられるようですが、何かを待っているのですかな?」
 にこやかな表情を作った稲川を、青年は寂しげに見つめた。その底知れぬ不安と期待を秘めた瞳を見たとき、稲川の体に戦慄が走った。その戦慄は、かつて社会の中で見てきた自分と同類の人でもないし、自分と同類となるべくして何かを待つ人とも違うものであった。その目の奥には、自分たちには計り知れない何かを見つめる力が備わっているように感じたのだ。
「変な話かもしれないのですが、何を待っているのか分からないのです・・・。でも、どうしてもここにいなければいけない気がして・・・。」
「ほぉ・・・。」
「はははははは、おかしいですよね、おじいさん。なんだか分からないけれど、海岸に座り込んでぼんやり待ち続けているなんて・・・。」
 青年の寂しげなほほえみを見て、稲川は昔の自分を思いだした。恐らく、目の前の青年のような笑顔をした自分が蔀には見えていたのだろう。
「そうじゃろうか。私も若い頃はそんな気がしたものだ。」
「えっ、おじいさんもそんなことがあったのですか?」
「はっはっは、そうじゃよ。若い頃はな・・・。」
 青年の不安を少しでも和らげようと、稲川は柔和な笑顔を作った。
「それで、おじいさんは待っていたものが来たのですか?」
 青年は期待したような目で聞いてきた。そのどこか寂しげな瞳が、稲川の心に突き刺さり、彼は喉の奥まで昇ってきていた言葉を飲み込んだ。
「・・・うーむ、忘れてしまったわい。何せ昔のことじゃからな。なぁに、心配せんでもいい。そのうち、お前さんが待っているものも来るさ。」
 稲川はそう言って青年の顔を見つめた。目の前の青年は、間違いなく何かを待ち続け、そしてそれと出会うだろう。しかし、かつて蔀がそうであったように、青年と一緒にその何かを待ち続けても、自分には知ることができないということは稲川には分かった。そして、その理由も。
 目の前の青年は、何かを見つけた後に新たな社会へ飛び込み、その中で活躍していくのだろう。自分たちには決して見えず、感じられない何かを感じながら。


 ある日、突然思いついて一気に書き上げた作品です。一応、推敲をしてあるので、読めるようにはなっているはずです。
 おもしろいかどうかはかなり保証できません。



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