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  | 願い 一人の青年が砂浜に座っていた。彼はぼんやりと海の向こうを見つめていた。
 青年は黙って海を見続けている。既に一時間ほど経つが、彼を呼ぶ声もないし、周囲を通り過ぎる人間もいなかった。
 「・・・。」
 青年は何かにおびえるように急に後ろを向いて立ち上がった。
 「誰もいないな。それでは、ここからおさらばするか。」
 青年は前を向き、沈みゆく太陽へ向かって海へ進んでいった。その時である。
 「お待ちなさい。そこのお兄さん。」
 あわてて横を向くと普通な中年男性が立っていた。青年は驚いてその場に尻餅をついた。ズボンに海水がゆっくりと染みている。
 「あ、あなたは?」
 「聞いても無駄でしょう? これから死ぬのですから、私のことを覚えていただいても私には何の利益にもなりませんよ。」
 中年男性は平然と答えた。
 「しかし、今あなたは僕にお待ちなさいと言ったでしょう? それでは矛盾しませんか?」
 中年男性はあくまでも落ち着いている。
 「私はあなたが自殺するのを待ってくださいと申し上げたわけではありません。死ぬ前に、私の話を聞いてもらうために、お待ちなさいと言ったのです。」
 青年の頭は混乱しているようである。
 「まぁ、細かいことは抜きにして・・・。」
 中年はそこで一呼吸入れた。
 「あなた、もうこの世に未練はありませんね?」
 「あぁ、その通りだ。もうこの世には未練がない。それどころか、僕はもう望みのかけらすらない!!」
 中年の言葉は未だに飲み込めてはいないようだが、青年は大声で叫んだ。
 「そうですか・・・。その言葉に嘘はないですね?」
 「嘘はない。あなたは僕が自殺しようとしているのを止めないのならば、嘘ではないことは分かるだろう!」
 中年男性はうなずいた。
 「そうですか。自殺などいつでもできます。ちょっと私の家に来てくれませんか?」
 「なぜだ? なんだかんだ言って僕の自殺を止めて世間に注目されようなんて、そうはいかないぞ。僕の石は鉄よりも、いやダイヤモンドよりも硬いからな。」
 「いえいえ、そんなことじゃありません。私は自殺する人間の心理が知りたいのですよ。なぁに、私の家にある椅子に座っていただき、二三の質問に答えていた
だければそれで結構です。」
 中年男性はそう言って手招きした。青年は引っ張られるように彼に着いていった。
 中年男性は砂浜に建てられた一軒の別荘へ案内した。部屋の明かりをつけながら、中年男性はある部屋の前で止まった。
 「おっと、家の鍵をかけ忘れた。ちょっと玄関へいってきますので、部屋にある椅子に腰掛けていてください。」
 中年男性はそう言って玄関へ戻っていく。それを見ながら、青年は扉を開けて部屋の中を見た。部屋の真ん中に机と、二つの椅子が置いてある。青年は無言の
まま椅子に向かって歩き始めた。
 青年が椅子に座り周囲を眺めていると、戻ってくる中年男性の足音がした。部屋の前まで来たか思うと、開けっ放しだった扉がぱたんと閉じられた。
 
 「うっ!」
 次の瞬間、青年が感じたのは猛烈な苦しさである。今まで部屋に満ちていた空気が一瞬にして無くなったのだ。
 彼は苦しそうにのどを押さえながら、その場に倒れた。
 扉に付いたガラスから笑っている中年男性の顔が見える。その顔は徐々に褐色に、耳は長くなり、口からは牙がのびていく。そして、真空なのに中年男性の声
が青年へと届いてきた。
 「おまえは望みがないと言ったな・・・。その無様な姿は何だ? 空気を求めて必死で口をパクパクさせているさまは・・・。」
 (この悪魔め・・・!)
 青年はしばらくその場でもだえていたが、やがてピクリとも動かなくなった。背中から大きな翼まで出てきた中年男性は、部屋の扉を開けて屍となった青年へ
と近寄った。そして、炎のような口を開けて身も凍るような笑い声をしばらくあげていていたが、やがて姿を消してしまった。
 
 
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